2008年08月20日

ピアソラ「リベルタンゴ」に息をのむ。

"Libertango" de A. Piazzolla
アストル・ピアソラの「リベルタンゴ」を2題。何れも胸をつかれるような艶めかしい踊り。女性としての美しさが際だつ。いきつ戻りつ、激しくときに緩やかに、交錯しながらも長く交じりあわない脚が、男女の機微をあらわして、切なくなるのだろうか。



Pablo Alonso & Diana @PabloTango School in London



Virginia Kelly & Dario Da Silva @NYC 2005
www.corazondetango.com

アストル・ピアソラは、1921年、アルゼンチンのマル・デル・プラタにイタリア移民三世の子として生まれる。四歳の時に一家でニューヨークに移住し、15歳までを過ごす。
(中略)
 1939年に当時最先端だったトロイロ楽団に参加し、バンドネオン奏者として徐々に頭角を表す。1944年にトロイロ楽団を脱退後、自らの楽団を率いて活動を開始、先鋭的なオーケストラ・タンゴを展開する。1954年タンゴの限界に行き当たり、クラシックの作曲家を目指して渡仏、パリでナディア・ブーランジェに師事する。当初自分のタンゴ奏者の経歴を隠していたが、ナディアにタンゴこそがピアソラ音楽の原点であることを指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚める。
(中略)
 1955年7月に帰国、エレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成。前衛的な作風に保守的なタンゴファンから猛攻撃を受け「タンゴの破壊者」と罵られ、命を狙われたこともあったという。
(中略)
 1959年に父の死に捧げた代表作『アディオス・ノニーノ』を作曲。翌年アルゼンチンに帰国、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成、以後ピアソラの標準的グループ構成となる。
 ピアソラの楽団に所属することはサッカー王国アルゼンチンでナショナルチームに所属することと同じほど名誉だった。1992年ブエノスアイレスの病院にて死去。享年71。

 元来タンゴは踊りのための伴奏音楽で、強いリズム性とセンチメンタルなメロディをもつ展開の分かりやすい楽曲であった。ピアソラはそこにバロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨークジャズのエッセンスを取り入れ、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を生み出した。これは完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなかった。
 一方で、ピアソラの音楽はニューヨークなどあまりタンゴと関わりを持たない街で評価された。現在では、タンゴをローカルな音楽から押し広げた功績は、アルゼンチンのみならず国際的に高く評価されている。
 ピアソラの音楽は共演者から「二十年先行していた」と評価され、ピアソラ一代で完全に閉じているためにタンゴ全体の未来はピアソラの先にない、という見方がある。


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Posted by ivanisevic at 00:01│Comments(0)音楽
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